クリスタルのブログ

ミクロとマクロの観点から、王国の文化を理解し、イメージを膨らませていくことを目指すブログです。

神様が聖殿食口ひとりひとりの願いを叶えてくださる時・・

皆様、願っても祈っても叶えられてない事ってありませんか?
私にはずっと祈って来ているのに叶えられてない事・・って正直な所たくさんあります。


でも、一方で今までの信仰生活で叶えられた事もたくさんありました。


今回のテーマは、そんな叶えられてない事が叶えられる為に今までの私の乏しくてつたない経験ですが、叶えられた時はどうだったのか?に焦点を当てて考えてみたいと思います。


う~~~ん、書きたい事、頭に浮かんでいる事はたくさんあって書き始めているのですが、頭の中がごちゃごちゃしてしていて、分かりやすく順序よく書くのにいつも一苦労です。



私達誰もが原理を学んで本当に感動して神様に出会い導かれました。
皆様も大なり小なり感動してこのみ旨の道に来られたと思います。


信仰の初期の頃、復帰摂理とは堕落した人間を完成せしめるために、私達を創造本然の人間(堕落性を脱いで、個性完成して・・)に復帰してゆく神様の摂理であり、
再創造の摂理であり、それを復帰原理というと教えられて、
私達は蕩減復帰原理(路程)を意識して歩み出しました。ですから私も
メシヤを迎える為の基台を立てる為に、よく蕩減条件を立てたものでした。



ちなみに私が伝道された時、霊の親が7日間の成約断食の蕩減条件を立てていたらしいのです。しかも私と出会った日がその最後の7日目だったそうです。
後で分かったのですが、その時その教会では、「神様が私を送ってくださった」と言って
大騒ぎになったそうです。


私の霊の親は、軽度のダウン症で見た目にも何かあるなと分かる方でした。
私はその彼があまりにも真剣に声をかけてくるので、いつも絶対にアンケートなどに答えないで、冷たい感じで通り過ぎていた私でしたが、その日は止まらざるを得なかったのです。
そんな姿の彼を無視する私だとしたら、もうどうしょうもないレベルの冷酷な人間になってしまうととっさに感じたからでした。


しかも、アンケートの時も異常な程熱心なので、その一生懸命な姿に答えざるを得なくなってその流れで私はそのまま教会までついて行ってしまったのです。
そこでの彼の喜びようといったら、初めての私にも伝わって来る程でした。


私はその日は少しそこで話をして、教会だということぐらいは把握しましたが、わけがわからなかったので、このままさようならをするつもりでいました。
ところが、不覚にも次にいつ来るかの約束をしてしまったのでした。


約束しても、後で電話して丁重に断れば済むことだからと思っていたのですが、私は教会の電話番号を聞いてなかったために断る事が出来なくて、しかも霊の親の喜んでいた姿が
私の脳裏に浮かんで断り切れずに次も行ってしまったのでした。
こうして、伝道されて今の私があります。


信仰など、弱い人がすがるぐらいにしか考えていなかった傲慢な私は、
彼でなければ、アンケートには答えなかったでしょうし、
彼でなければ初めての人に、のこのこ着いていかなかったと思うので、
神様は本当に私の伝道される唯一の道を設定して導いてくださったと感じたのでした。


なので、神様が導ける条件(願いを叶えてくださる時)は、実力がどうのとかの問題ではなく、その人(中心人物)が立てる条件によるのだと思います。
また自分がない無私の姿に働かれる神様であるとも思いました。



また、これも復帰されたばかりの頃ですが、わたしの通っていた教会である時復興会があり、私達は寸劇のような出し物をする機会がありました。
わたしは確かマグダラのマリアのお母さんの役で、その時の私の台詞を今でも思い出します。「何もおまえがやらなくても・・・」という台詞だったのですが、
これが後々の私の課題となっていきました。


江利川会長は、復帰されたときに「一番難しいことを私がやろう」と決意したといわれますが、私の場合は、信仰生活を重ねていく中で、いつも難しいことがあると、「何もお前がやらなくてもいい・・」という声が私の中で聞こえてくるのです。
そしてある時は見て見ぬふりをしてました。



そんな私でしたが本心ではこの声ならぬ声が私にとっては本当に邪魔でした。
これが、今から考えるとこの声ならぬ声が、王様の云われる鬼神なのだと思います。
この声を押しのけて逆の道を行く事が暫くの間私の課題でした。


ですから、当初私はこの鬼神を意識して、対象化して、自分が望む道ではなく、神様が願う道を意識して選ぶように心がけ、難しい道に自ら進んだときに神様が私の願いを叶えてくださる経験をするようになるのでした。




また、もう一つの私の鬼神は、計算高いことでした。
人に与えて忘れる 勿論これを私自身も目指してはいるのですが、そこにいやらしい計算がはいってくる自分である事を感じていました。
その心(鬼神)に気が付いた私は、いつしか「自分はどこまでなら与えて忘れられるか」をチャレンジをしていくようになりました。


誰にも言わないのですが、自分の中でこの間はここまでで限界だった。
すると、神様は良くご存知なので、その同じような状況を作って試練をくださいます。
私は、「はい、その試練また来ました。お父様大丈夫です。これはこの間失敗した試練です。今度は越えます。」と言いながら、失敗したり、成功したりを私の内的な心情の中で繰り返してきました。その繰り返しによって、神様の試練が分かるようになり、愛の復帰も意識して出来るようになってきたと思います。


そして、前には乗り越えられなかった状態を心情(愛)が越えたとき、神様は私の願いをまた一つ叶えてくださってくださったと思うのです。
もちろん、この試練には限りがなく、今も神様の愛に近づく為に努力中です。




また、一番ややっこしいのは、人と比較して基準を下げる私でした。
初期の頃は、そんな自分も本当に嫌いでした。
でもある時ふと気付かされました。
自分が自分を愛せないのに何故人を愛せるのか?


そこから私は変わりました。
神様が愛してくださっている唯一無二の私の良いところを探すようにしました。
そして、ひとつまたひとつと見つけるごとに「そうだよ。その通りだよ。」と神様が
喜んでくださっているのを感じるようになりました。


そして兄弟姉妹も同じなんだ。神様からの個性真理体・唯一無二の彼であり、彼女です。
神様が彼らを愛する愛を私が神様に変わって届けてみよう。
神様に変わって「あなたのここが良いところだよ。」とそっと伝えてあげられる私になろうと決意しました。すると、私が兄弟姉妹を神様の代わりに愛せたとき、神様は「ありがとう」と言ってくださっているように私の願いをそっと叶えてくださるようになりました。




また、兄弟姉妹を許せないという心情(鬼神)は、私の中に根を張ってなかなか出て行ってくれません。七転八倒、私は苦しんだ末、それこそ長い信仰生活何十年もかかって、私は一つの方法を見つけ出しました。それは、私も神様に許されている事を実感することでした。
乗り越えられない私に、許せないことが起こる度に、「あなたも不足でしょう。あなたも同じ堕落性があるでしょう。」という経験を私は何度もさせられました。


そんな中で幾度となく失敗を繰り返しながら、私は「こんな自分も許されている」と思う体験をさせられました。蕩減復帰の為にそのような状況に何度も何度もおかれながら、ここまでは勝利できたと思ったら、またもう少し難しい状況を神様が用意してくださり、
私が再度チャレンジしていく、これを繰り返しながら、今もその途上に私はいるのですが・・そのかつては許せなかった状況を許せるようになれたとき、神様はまたひとつご褒美に私の願いを叶えてくださって来たと思います。



まだまだあると思うのですが、思いつくままに書いてみました。


結局のところ、聖霊体験の前には、心情的な条件が必要不可欠である事を感じます。
また、大きな願いを叶えていただくには、条件を重ねて歩む期間も必要である事も感じています。


また霊界を動員するには、過去の先祖の気持ちを理解するとか・・兄弟姉妹の気持ちを分かってあげて慰めるとか・・神様の摂理に対して、責任を持つ決意神様に捧げるなど・・・様々あると思います。



私達は国進様のように黙々と天に勝利を捧げることの出来る者になりたいものです。



とても書ききれないので、また思いついたときにつけたしていけたらと思います。
もう一つ、人間的な見つめ方と天的な見つめ方という事がありました。
このことについては、また次の記事で書きたいと思います。
まとまらない文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。



いずれにしても、み旨を与えられている私達の立場はとても幸せであると思います。



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