クリスタルのブログ

ミクロとマクロの観点から、王国の文化を理解し、イメージを膨らませていくことを目指すブログです。

宣教に行く前に起こった不思議な出来事

先回のまでの記事「テネシー清平 霊連世協会はすぐそこまで1~5」で私は、その10日修で宣教に行く決意が徐々に出来て行った事を心情の変化と共に書いてきました。



最後の記事では、宣教地がGEORGIA(ジョージア)に決定し決意出来たその瞬間、神様が私の心情の変化に応えてくださり、太陽光線のように暖かい放射線のような光を降り注いでくださった所まで書かせていただきました。

今日はせっかくここまで書いてきたので、その後どうなって宣教に行く事が出来たのかと、実際宣教地に行く前に過ごしたロシア滞在でのある方との出会いとその時の聖霊体験などを記事にしたいと思います。



さぁて、私は日本に戻ってから生後4ヵ月と3才半の娘たちに囲まれて忙しい毎日に追われながらも、どのようにして子どもたちの面倒をみてくれる人を探すのか?など考えながら数日を過ごしていました。
方法が見つからないことに苦しんではいましたが、不思議と「必ず行ける。方法はある。」という確信には揺らぎがありませんでした。


そして主人も修練会に行く前には、
「自分ひとりで子どもたちを見るなんて不可能だよ。とても無理だからね。」
と反対していたのですが私が修練会に行っている間に
「宣教に行かせなくちゃ、行かせてあげたい・・」
という風に心情が変わったそうで聖霊は修練会と同時並行して、主人の方にも働きかけてくださっていたのでした。
私としては何とも心強い限りでした。


そんなある日、私は夢を見ました。
夢の中では、保育園のような所に子どもたちを預けていたのでした。
特別な夢ではありませんでしたが、「そうだ保育園が見つかるってことかもしれない。」
と思いました。


今までは、主人の帰りが遅いので保育園では無理だと思っていましたので、保育園は探してもいませんでした。
「保育園を諦めるのはまだ早いんだ。条件にあった保育園がきっとあるんだ。」
という希望が出て、電話帳から夜間保育などをうたっている保育園を調べてどんどん電話がけしていったのでした。


すると、夜遅くまで見てくれる保育園が意外と早く見つかりました。
すぐに園長先生につないでもらって入園したい旨を伝えました。
面接に来てくださいと言われたので、後日私はすぐにお会いしに行きました。


私は、その保育園の園長先生にお会いして本当にびっくりしたのです。
それは、私が聞きたいと思って用意していた事をすべて先に言われたからです。
私はその時ほど霊界が繋がっていて神様が私の事情をすべてご存知である事を思い知らされたことはありませんでした。


夕食が食べさせてもらえるのかどうか?
お風呂に入れてもらえるのかどうか?
遅いお迎えでも大丈夫か?


このことが、私が一番確認したかった事でした。
私がそのことを聞く前に園長がすべて答えてくれていました。


「夕食は、食べさせますよ。」
「お風呂にも入れますよ。」
「遅いお迎えでも大丈夫ですよ。」


何故私の心配していたことが、園長の口からすらすらと出てくるのか?
まだ何も私は聞いてもいないのに本当に不思議でした。


(ちなみに上の写真でフォークを持った赤ちゃんが今テネシー清平にいる娘です。)


そして普通ならこんな小さな娘たちを残して、ボランティアに行くなんて尋常ではないことに違いありませんし、軽蔑もされることを私は覚悟していました。


ですがその予想に反して、園長の反応は(もちろん宣教とは言ってないのですが)これから海外に行く私に対してとても暖かい言葉をかけてくださったのです。
「とても尊いことですね。頑張って行って来てください。娘さんたちのことは心配しなくて良いですよ。安心して活動してきてください。」
と・・・


私は園長先生の言葉が神様からの声に聞こえて泣けて泣けてしかたがなく、心ではその場で号泣していたのですが、涙が溢れて来るのを必死にこらえて、園長室を出るまで何とか堪え切りました。
他の先生たちの見送りもありそこでも涙をこらえましたが、園の外に出た途端なりふり構わず大泣きをしながら、足早に車に乗り込みました。それ程園長先生の言葉は嬉しかったし、「万歳!やったー何とかなりそうだ」とやっと安心できた瞬間でもありました。


と同時に神様からも、同じように
大丈夫だよ。貴方の娘たちは私が面倒見てあげるし、守ってあげるんだから・・・」
という声ならぬ声が私の心でこだまして感動の涙が止めどなく溢れていたのでした。


そしてその数日後、私は晴れて宣教地ジョージアに向かって飛び立ったのでした。



まず、東北大陸の宣教師たちは、一同ロシアに集まりました。


そこで、いろんなみ言葉を頂いて出発するのですが、なんとそこで待っていてくださったのは、1991年からの6年間日本巡回を終えられ、当時1996年からロシアの国家メシヤとして歩まれていた姜(康)賢實先生(真のお母様)でした。


(写真中央が真のお母様で、後ろの空色のカーディガンを着ているのが私です。) 


ロシアの教会に集まった17ヵ国の東北大陸の宣教師たちは、そこで姜賢実先生(真のお母様)のみ言葉を受けることとなりました。



その時ある姉妹は私と同じように小さな子どもをおいて来ていましたし、またある姉妹は、病気の親をおいて来ていたり、またある姉妹は家庭を持つのを遅らせたり妊娠を後回しにして集まっていました。


その時私達はどれ程姜賢実先生(真のお母様)のみ言葉に慰められ感動したのかわかりません。み言葉を受けながら、どこからともなくすすり泣くような声が聞こえてきました。
私もつられるように堪えていた涙が溢れたのを覚えています。


教会の中にこんなにも心に響くみ言葉を語られる方がいらっしゃたのかと今までにない衝撃を受けました。本当にそこに参加していた宣教師の多くは、お母様がたとえ何も語られなくてもその場に共にいるだけでお互いに心が通じている感覚を覚えていたことを思い出します。


今振り返ってみると、それもそのはずでした。


最近、菅〇さんが私達に伝えてくださっている本妻(当時の韓鶴子オモニ)妾(姜ヒョンシルオモニや、1993年10月からの16万女性修練会に出た女性たち)の解説が心から納得できたのでした。https://simuson.muragon.com/entry/55....


姜(康)賢実真のお母様の「涙の海の心情圏」によって、お父様が「見ることも、知ることも出来ないバトン」として受け取ってくださり、それが、1997年9月6日の栄進様と亨進様の祝福式の時に王様(亨進様)にその「バトン」が渡されていた事なども・・
https://simuson.muragon.com/entry/57....


当時は何が何だか分からずに、何故こんなにも慰労されるのだろうか?と不思議に思っていましたが、今から思うとその全てが納得出来ました。


いろんな事で失敗だらけの私であり、お父様の足を引っ張ってばかりの私ですが、その「涙の海のバトン」の話ですべてが繋がって、2010年2月23日に王様が、
「全ての兄弟姉妹が生きた聖人でした。」
「日本の食口は、本当に私の人生を変えました。」
と語られたという証を菅〇さんのブログから勉強させていただいたとき、み旨の中で生きてきて少しは役に立つことがあったかもしれないと、どれ程慰められたかわかりません。



菅〇さん、深い内容を解説して頂きいつも本当にありがとうございます。



宣教地での話はまた続きます。





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